当社代表桑原によるコラム「遊自耕」は、隔月発行の建築情報誌「飛翔」誌上にて連載しています。飛翔の送付をご希望の方は、飛翔送付申込フォームよりお申込下さい。(送付無料)

遊自耕 不常識を食らう シリーズno.135

山田昭男さんを偲ぶ

7月30日、未来工業創業者の山田昭男さんが逝去されました。

私は、前職の清水建設で、未来工業本社ビル新築工事の担当を命じられ、1984年に初めて山田さんとお会いしました。

1988年に希望社を設立した時には、無理をお願いして社外取締役をお引き受けいただき、以後さまざまなご支援をいただきながら、今日に至っています。

山田さんは、人の話に迎合したり権威に跪いたりせず、ひとえに自分の意志を貫いた人でした。また、とてもサービス精神旺盛な人でした。

常に考える

“あのなあ、未来工業の製品で一番シェアーの高いのは何だと思う? スイッチボックスさ。80%位かな。あんな物は松下や日立は作らないよ。俺の所では、ビス穴の数や位置を変えたり、すぐ使えるようビスをテープで貼り付けたりして、電工さんがより使い良いものを作ってきたからね。だけどそのうちに、スイッチなんか世の中から消えてしまう。もう少ししたら、「点け」「消えろ」と声を掛ければ、電灯が言うことを聞くようになるよ”

その頃の未来工業は、CD管(電線を通すための合成樹脂管)で急成長し始めていました。それまでの電線管はコンジットパイプという鉄管でしたが、CD管はフレキシブルで電気工事の革命とも言えるものでした。

CD管は当初、日本電気技術基準に適合しないとして、公共工事では認められませんでしたが、民間工事での急速な普及・拡大により、公共工事への参入の道が付きました。 CD管自体は誰でも作れるものだから、未来工業は、CD管回りの多様な付属品を開発し、そのパテントを武器に他社と差別化を図り、OEM生産で売り上げを増やしていきました。

“あのなあ、CD管の始まりは水道ホースなんだよな、これが!”

ケチとゼイタク

山田さんのケチは有名です。髭は剃らない。トイレから出ても手を洗わない。“自分の物が汚い訳はないし、水道代がもったいない”

オフィスの蛍光灯には、一灯ごとに入り切りする紐付のスイッチが付いている。“自分に必要な電気は使っても良いが、あとは消しておけ”なるほどであります。

会社ではランニングシャツに猿股、それにスリッパ履きです。これもケチなのか、自己表現なのか? さすが演劇で身を持ち崩した人のやりそうなことです。

ゼイタクはすごいですね。未来コミュニティシアターは、文化水準の低い大垣の人達に、定期的に演劇やコンサートなどを無料で提供し、名物になっています。阪神大震災の時は、被災した電気工事店への請求を全てゼロにして、支援しました。

ケチはゼイタクの礎なのかもしれません。だけど誰にでもできることではないんだな、これが。

なんというサービス精神

“こんにちは”“おお” 社長室の壁は、全国から集めた演劇やコンサートのチラシでいっぱい。そのチラシを自分で剥がして貼り替える。始めるときりがない。やりながら始めた話も然りであります。

昼食の時間が過ぎた頃“名古屋に芝居を見に行こうか?”“俺は今日はちょっと”なんて切り出せなくて付いて行きます。

今日は忙しいので帰ってくれなんて言われたことは、一度も覚えていません。本当は忙しいのだろうと思うのですが、忙しいなんて言わない。なんという旺盛なサービス精神なのでしょうか?

俺はヌエだぞ

何の話だったか忘れましたが、“俺はヌエだ”と言われたことがありました。ヌエを知らなかった浅学な私に“辞書を引いてみろ。「山田昭男のこと」って書いてあるぞ” “なるほど、鵺か……” 相談役になってからも、山田流の話は衰えを知りませんでした。

昨年4月、東京の友人から「東京の経営者グループで未来工業の見学と山田さんの講演が聞きたい。時期は9月で」と言われ、山田さんに電話しました。“お前さんの話だからいいよ。だけど、生きていたらだよ”それが最後になってしまいました。

“どうだ。話を聞いたらやってみろ” たくさんの聴衆の中で、山田イズムに取り組み、功を奏した人をきいたことがありません。

できないだろうな、これが。誰も真似できない。

日本一社員を幸せにする会社作りに、一途に取り組んだ山田さんは、計り知れない大鵺でした。 私も真似はできませんが、一徹さだけを継承し、生きていきます。ありがとうございました。

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